解釈の観念化

解釈は放置すると観念になる。

だから解釈である事を、たまに確認すべき。

 

例えば、

小学生の頃走るのが遅かった。

自分のせいで徒競走が最下位だった。

だから気まずくて、

目立ってはいけない気がして、

あまり私語もしなかった。

 

そういう事実があったとする。

 

そういう人が大人になると、

そもそも自分は目立ってはいけないという

観念が育ってしまう。

 

目立たないように、

目立たないように、

自分の気持ちを押し殺して、

自分の気持ちがわからなくなってしまう。

 

なんて事もある。

 

これを防ぐにはどうするのか?

自分の過去を責めて改善しようという人がいる。

「俺に力がなかったのがいけないんだ、

強くなって文句を言われない人間にならなきゃ、、、」

それは違う。

 

そうしたところで人はすぐに変われない。

特に能力的なものは観念について来るので、

観念が変わらないまま

努力しようとするとダメな自分を

より固定化させてしまう。

 

必要なのは過去の否定では無い、

事実の確認だ。

 

冷静に考えれば、

足が遅いから目立ってはいけないなんて、

何の因果関係もない話だ。

だからって論理的でない自分を責めるのではない。

 

論理的な解釈ではない、

ただ事実として当時の自分は

そう解釈した。

それを時たま確認するだけで良い。

 

そうする事で事実との乖離がなくなり、

勝手に卑屈になり、

ダメな自分という観念を固定化しなくなる。

 

アサガオに水をやるように、

観察するように、

自分が持った解釈は確認する、

観察する。

 

 

それを繰り返し、

出来る範囲で行う事で、

ニュートラルな自分で居られる。

 

自分の気持ち、欲求、本音がわかる。

本音からの欲求を満たすための行動は速い。

こうしてニュートラルな自分で居られる事が、

所謂なんでも出来る人の正体。